神の領域を目指して
このまえTVを見ていたら、その内容について考えさせる事があったので、皆さんにも紹介しましょう。
内容は単純で、アンドロイド(人間型ロボット)が人間になりたくていろいろ苦労するはなしです。(AIではありません。)そのアンドロイドが、自分の複製を作ります。つまりアンドロイドの子供を作ったのです。はじめは思考能力、運動能力も弱いのですが、どんどん学習して賢くなります。そしてその子供は哲学的な考えも出来るまでに発達します。そして自分は人間と異なる存在、アンドロイドであることに気がつき苦悩します。人間と同じように笑ったり泣いたり、人間と変わらないようになれるように努力します。しかしアンドロイドですから、けっして人間にはなれません。このあたりはピノキオが人間になれない所に似ています。
そしてあるとき質問します。
「お父さん、なぜ人間になろうと努力するのですか?努力すれば人間になれるのですか?」
実現不可能な目標に努力する事が無意味に思えてきたのでしょう。けっして人間になれないのに何故人間になれるように努力するのか?この問いに対して答えます。
「我々はけっして人間にはなれない、だからと言って人間に近づく努力を否定してはいけない。人間になるという結果が重要なので無く、それに向かって努力することが大切なんだ。」
この言葉を聞いたとき思いました。よく私達は結果が大切なのでは無く、その過程が大切だというセリフを言います。例えば「テストで100点を取ることが大切なのでは無く、それに向かって努力するのが大切だ。」という具合にです。
しかし、「テストで100点を・・・」はどちらかというとなぐさめに使う事が多いように思います。努力したけど結果は残念だった場合に、落ち込んでいる人に対して良く使われると思います。ここでひとつ考えてみましょう。テストで100点を取るのは不可能ではありません。努力すれば100点を取る可能性は十分有ります。しかしながらアンドロイドが人間になれる可能性はまったくありません。不可能なのです。つまり不可能と解かっている事に対して努力する、けっして達成することが出来ない目標に向かって努力するという事に感銘を受けたのです。
ここからが本題ですが、この時にアーチェリーの目標は何だろうか?と思ったわけです。 1300点を越える?でしょうか、国体の入賞を目指す? でしょうか、押し手を鍛える? でしょうか、たしかにこれらは目標ではありますが、これらは目先の目標であって、最終目標ではありません。(目先の目標でも実現出来るかどうかは不明ですが。)では最終目標は?ここで考えました、最終目標? 楽しくアーチェリーをするかな?しかし実際はつらい事も多く、それだけでナ無いような気がします。なぜアーチェリーをしているか?という根本の問いにも答えられる目標が、きっとあるはずだと思いいろいろ考えました。そして出た1つの答えが「神の領域を目指す」です。
漠然とした答えなのでもう少し説明をします。アーチェリーを頑張って続けているのは、自分の中に隠れている可能性を少しでも発掘する為です。自分でも知らない自分を発見することはとても楽しいです。苦労して淡々と練習を繰り返すその動機は、可能性の追求です。限界の追求でもあるわけですが、同時に不可能への挑戦でもあります。不可能な領域、すなわち神の領域への挑戦なのです。決して達成することの無い目標への挑戦なのです。ここで先ほどのアンドロイドが、けっして達成することが出来ない目標に向かって努力するという事に感銘を受けたのです。
不可能への挑戦では達成することが無いので、つまらないと思うかもしれませんが、技術が上達したり、得点が上がったり、進歩した自分を発見したりする時思います。「自分はこれで神の領域に1歩近づいたのだと。」
決してこれは宗教的な話しではなくて、おそらく多くの皆さんも同じように不可能へ挑戦していると思います。登山家が山に登るのも、科学者が真理を探究するのも神への挑戦なのです。(マンガのヒカルの碁では神の1手を目指しています。)そして1歩近づく事に本能的な喜びを得ます。他人から見れば、自己満足に過ぎないかもしれませんが・・・