日本のアーチェリーの歩み
日本に初めてアーチェリーが紹介されたのは1939年(昭和14年)のことで、当時の読売新聞ニューヨーク支局勤務の菅重義氏がアメリカから帰国し、日本弓道会に紹介したのがその始めということになっている。
1947年(昭和22年)には、東京にあるロビンフッドクラブを中心に東京の他のクラブを統一して「日本洋弓会」が結成され、これが1956年(昭和31年)に「日本アーチエリー協会」になり、1959(昭和34年)に、川上源一氏(日本楽器製造社長)が初代会長に就任して、初めて本格的なアーチェリーが日本での活動が開始された。初めて日本に紹介されてから20年後のことである。
当時の日本には大きくわけて3つの組織があり、1つは日本アーチェリー協会。1つは日弓連(全日本弓道連盟)。そして残る1つは結成の動きをみせた学連である。この3組織は明確に分れたものでなく、境目はあやふやであった。そしてこの中で、一番熱心にアーチェリーに取り組んだのは、全日本弓道連盟であった。
なぜ全日本弓道連盟がアーチェリーに関係するのか不思議に思われる人も多いかもしれないが、 アーチェリーを統括する団体としての日本アーチェリー協会は、クラブを大きくしたようなもので全国的に統括するほど力は無く、学連は1958年に関東のわずか4校でスタートしようという話し含いが進められている段階であったため、全日本弓道連盟がアーチェリーの発展に尽力したのである。日弓連には、協会の理事長をしていた小沼英治氏(元JFAA理事長)がおり、早くからアーチェリーの将来性を予想し、その普及・発展に尽力してきた人である。現在のアーチェリーはこの人無くしては語れないと言って良いだろう。
全日本弓道連盟が熱心にアーチェリーに取り組んだのには訳が有り、それは1957年に、ブルガリアのソフィアで開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、1964年のオリンピックからアーチェリー、バレーボール、ハンドボールの3種目がオリンピック競技種目として追加することが決定されたことである。つまり弓道はオリンピックの正式種目であり、国際的な競技であると位置付けたかったのである。
アーチェリー競技にとってオリンピックの正式種目になる事はひじょうに良い事であるが、この出来事が当時の日本のアーチェリーにとって凶なのか吉なのかは解らない。なぜならこの「オリンピック正式種目」によって全日本弓道連盟と全日本アーチェリー連盟の争いが有ったからである。
「オリンピック正式種目」によって和弓を国際的な競技にしようと日弓連では、翌年(1958年)には早速国際部を設けてアーチェリーの調査研究にのり出したのである。そして日弓連は「和弓の国際的発展を願って」1958年6月11日付でFITAに加盟を申請、第19回世界選手権大会後の定例総会で、7月20日付をもって加盟が承認されたのである。
学連の方は1959年に、東京教育大学(筑波大学)、学習院大学、日本体育大学、玉川大学の4校を中心に学連結成の話がまとまり、4月には「日本学生アーチェリー連盟」(会長・栗本義彦氏)が正式に発足した。そしてリーグ戦を行い、ここに学生アーチェリーである学連はがスタートした。
一方、アーチェリー協会は川上源一氏を会長に迎え、射場を増やす、指導者を養成する、財政を豊かにするということをモットーに全国組織づくりに着手した。そしてこの年に第一回の全日本アーチェリー競技大会が東京・学習院大学グラウンドで行われた。優勝したのは小沼氏であった。
日弓連は、前年の加盟承認に引き統いて国際部委員をベルギー、スウエーデン等に送ってアーチェリーの調査研究を行った。1959年には、この年の世界選手権大会(第20回この年まで世界大会は毎年行われていた)に役員2名を派遣し、来る第21回世界選手権への準備を進めていた。
この結果アーチェリーの知名度は上昇し、国内にアーチェリーブームをひきおこした。この背景には戦後の経済復活、対外的に目を向ける傾向、さらには和弓のように礼儀作法にうるさくなく、単純にスコアを競うということがあったようである。そして、1961年には初めて日本チームが世界選手権大会へ参加をしたのである。この時の日本人選手は初めての世界大会にビックリするばかりであったという。今から思うと笑い話になるが、外国人選手がプレスチックの羽を付けているに驚いたという。当時日本人選手は鳥羽根しか知らなかったのである。
翌1962年になると第4回アジア競技大会に猪股興一氏(協会理事)以下選手3名を派遣し、完全優勝した。この様に、一見順風満帆にみえたアーチェリーではあったが、その裏では、秘かに3者の間を冷たい風が吹きつつあったのである。
日弓連はFITAへ加盟して以来、ひたすらオリンピック競技での和弓の出場を考えていた。だからFITA加盟当時、役員を派遣していろいろ調査したのは競技・運営でなく、"和弓でアーチェリーに対抗できるか〃ということであった。これについてはすこぶる楽観的であったというしかない。根性と精神力、さらに長い伝統があれば勝てないはずは無いと思っていたのであろう。なぜなら、当時の用具は一本ボウであり、和弓と大差ないものであったからである。スコア的にはどうしてもアーチエリーにかなわないが、それはサイトが和弓には無いせいで、サイトを付ければアーチェリーに対抗できると考えていたのである。
1964年の東京オリンピックが近づくにつれ、マスコミはアーチェリーを「洋弓」と書くようになった。ラジオもTVも新聞も「洋弓=アーチェリー」という。こうなると日弓連としてはあまりおもしろくない。世間の口にあがるのは「洋弓」で、「和弓」の「和」の字さえ話題にならない。そこで日弓連では会長名の公式文書で『アーチェリーの日本語の名称は〈弓道〉とする』ことに決定した旨を、オりンピック準備委員会事務局長、文部省体育局長、体協会長(代理)、体協記者クラブヘ申し入れをした。何とかして和弓がオリンピック種目である事を強くアピールしたかったのである。
1961年には第21回世界選手権に選手を派遣し、結果は亀井選手が55位でまあまあというところであった。ところが、日弓連がFITAに加盟して以来ひたすらオリンピックを目標にしていたのだが、1962年になるとJOCは、「アーチェリーは参加申し込みが8ヶ国しかなく、個人ゲーム規定の16ヶ国以上という条件に足りない」ということで他の3種とともにアーチェリー種目の除外を決定してしまった。この決定には日弓連の関係者のみならず、アーチエリー関係者にショックを与えた。
それでも、1962年にはアジア大会参加、1963年の第22回世界選手権、第一回日本・フイリピン親善試合にも選手を送るなど意欲的な活動をした。
こうした日弓連の動きがある一方で、学連は関西学院大学が中心となって関西学生アーチェリー連盟を結成した。ここで日学連は、関東地区を「関東学連」とすることにし、関東、関西両学連を中心にして1962年に「全日本学生アーチェリー連盟」が発足したのである。
新たに結成された学連は、関東11校、関西6校、九州1校で、これが学生アーチェリーが当分の間強さを発揮する時代になるのである。( 全国高等学校アーチェリー連盟は、昭和63年に全国高等学校体育連盟に加盟が認可された。)
日本アーチェリー協会は、川上氏を会長にむかえてから組織・競技の充実をはかった。学連の拡大ということもあって、組織として事務局、総務、財務、記録、指導、学生、報道などの部を設けた。本部(事務局)は東京・銀座にある日本楽器ビル内であった。全国組織としての機構を備えた協会ではあったが、その内容は学連との共同運営といってよく、二人三脚ような関係にあったのである。
しかし、オリンピックを前にしてアマチュアスポーツとしてのアーチェリーを強く前面にうち出すようになった学連は、次第に業者色の強い協会(会長の川上氏は日本楽器杜長、理事長の小沼氏はアサヒ弓具社長)と疎遠になりはじめたのである。
学連はさらに大きくなり、中部地区学連が結成されるまでになっていた。そして、かねてから「アマチュアスポーツ」をうたっていた学連は協会の業者色に反発を表明するようになった。学連は「アーチェリーはアマチュアスポーツであり、その組織を業者が運営しているのは不合理だ」としたのである。
そして、1965年には、協会が主催する全日本選手権(10月23・24日)には学連は参加をボイコットするという騒ぎにまで発展した。学園紛争が盛んなころでもあったので、学生はこのような行動に出たのである。
ここですごいのは、権力にしがみつく輩が多い中にあってアーチェリーの発展を第一に考えこの問題を解決するために、日本アーチェリー協会会長の川上氏が「そういう要望があるのなら私はやめる。小沼理事長、猪股理事も私と一緒にやめましよう」とあっさり辞任したことである。けれども、その後の処理の問題から学連は学連だけの組織で独自の運営をしよう、ということに決めて、アーチェリー協会から完全な独立をはかるのである。そして、これが次の全日本アーチェリー連盟結成の誘い水になったのである。協会の全日本選手権をボイコットして2ヶ月足らずのことであった。
愛知揆一氏(元大蔵、文部大臣)を学連の会長に推すようになった動機は、愛知氏の愛嬢が大学在学中アーチェリーをやっていたのを細井英彦氏(元全ア連財務部長)が指導したことがあり、そのつてなどで就任を要請した。さらに、高柳憲昭氏(元全ア連指導部長)らが東京・千駄谷の愛知氏の事務所に2度にわたってすわり込みをし、ようやく引きうけてもらったというエピソードが残っている。
また、このころは日弓連の持っているFITAへの加盟権をめぐって、協会から譲って欲しいといっていたが話しあいはつかなかつた。こんな中にあって、日弓連、学連、協会の3者は三すくみのようになってしまった。 この状況を打破してアーチェリーの発展をはかるためには愛知氏の会長就任はどうしても必要だったのである。
学連の動きに対して、急増するアーチエリー人口や世界選手権に対処するために組織の1本化を望む声も日増しに強くなっていった。そして翌1966年1月9日、組織統一を図ろうとする発起人会が愛知氏の事務所で行われた。
1966年1月9日夕方、ここに日本アーチエリー連盟が新しく誕生、初代会長に愛知氏が選ばれたのである。
全日本アーチェリー連盟は、従来存続していた日本アーチェリー協会を都道府県アーチエリー協会として、学連との上に立つ上部組織として3月に正式に発足したのである。こうして協会々長に川上氏が就任、1959年に学連が結成されてから7年目にして日本のアーチエリーは名実ともに1本化した。しかし、もう一方では大きな問題が残されていた。それはFITAへの加盟権をめぐる問題であった。
東京オリンピックでのアーチエリー競技がマボロシと終ったあとも、日弓連としては和弓の国際舞台への進出を夢みていた。そのため、全ア連が発足して最も苦労したのはこの「FITA加盟権の獲得であった」という。
当初、全ア連発会式に日弓連の宇野会長がきてFITA加盟権を譲渡するという手順になっていた。ところが、当日になって宇野氏は出席しないということになった。そしてFITA加盟権を譲渡しない、ということになってしまった。これは当時の日弓連専務理事村上久氏が反対したためだという。思いもかけないことになづたFITA加盟権問題を解決するため、愛知・宇野両会長が3回にわたってトップ会談を行ったが結局これも成功しなかった。 アーチェリーの発展を第一に考え自ら身を引いた川上氏や小沼氏、猪股氏と比べると、アーチェリーの発展よりも和弓の国際化を優先した当時の日弓連は前世紀の遺物的な所があったといわざるをえない。
しかしながら日弓連にしてみれば長年にわたって洋弓部ということで育ててきたのに勝手に独立した上に、FITA加盟を譲ってくれとは虫がよすぎると考えたのであった。それと、協会時代の業者色に難色を示したこともあった。1965年10月21日付朝日新聞では、日弓連国際部木内氏の話として「日本アーチェリー協会は、業者がはいり込んで用具を売るのを目的にしているのだから……」と書いている。多分に両組織間の感情的な問題もしこりになっていたのも事実である。全ア連としては、日弓連のかたくなさに対して、少し冷却期間を設けることにした。
1967年。第24回世界選手権の年である。この大会の選手派遣の人数をめぐって全ア連と日弓連の対立は再び表面化した。
この年の3月初め、日弓連から全ア連に対して次のような申し入れがあった。「エントリー8人のうち、全ア連から5人、日弓連から3人」というものである。全ア連では「次回大会からFITA加盟権を全面的に移譲する条件なら協力する」という姿勢をとったが、これに対して日弓連は確約を避けた。加えて、「まだ十分な組織作りができていない。いずれ、そういうムードになったら……」(村上専務理事)との態度に全ア連は硬化した。それでも結局、和弓の選手も参加させるということで、第24回世界選手権には初めて和弓の選手が参加した。しかし、記録としてはまったくふるわずに最下位。 (そのときの記録は90m78点 70m128点 50m194点 30m229点 合計629点 90m135点 70m191点 50m148点 30m254点 合計728点 総トータル1357点 ちなみにそのときの優勝者は90m258点 70m257点 50m282点 30m313点 合計1110点 90m273点 70m261点 50m283点 30m313点 合計1130点 総トータル2240点)
この時のチーム監督であった細井氏は「世界における和弓というものが、スコアを競うアーチエリー競技とはどんなに異質なものかが実際に体験できたと思いますよ。その意味では貴重な経験だったといえます」と世界選手権をふりかえる。
第24回世界選手権での和弓の惨敗ぶりに日弓連は非常なショックをうけた。参加することに意義があるとしたクーベルタン伯爵と違い、勝つ事に意義があるとした日弓連は、負けて恥を掻くのなら最初から参加しないほうが良いと判断し、国内のアーチエリーの隆盛ぷりと和弓の惨敗ぶりから、日弓連でも全ア連に加盟権を譲ろうということになり、両連盟で話いが行われた。さらに朝日系日刊スポーツの森本記者によってアーチェリーの将来を予測して全ア連がFITA加盟権を持つのが当然だという記事がキャンペーン的に掲載されたこともあり、1968年もおしつまった12月10日、日弓連から全ア連へ、FITA加盟権を譲る旨の公文書がきたのである。オリンピックに絡む連盟の権力争いはここに終止符が打たれたのである。これはけっして昔話ではない、30年以上たった2000年においても水泳連盟と千葉すず選手との争いがあるように、現在でもオリンピックに絡む問題は沢山あるのである。 日弓連に対し批判的な書き方をしたが、別に責めているわけではない、初期のアーチェリーの発展は日弓連の力によるところが大きいのも事実であるし、かたくなにFITA加盟権の譲渡を拒否した事により、日本の国際的な発展が遅れたのも事実である。ただ過去にそういう経緯があって全日本アーチェリー連盟が出来たということである。
これと同時に、日弓連からFITAへ「加盟権を全ア連へ譲りたい」という文書が送られた。これに対してFITAのフリス会長からは「正式加盟は総会で決定されるので、それまでは仮加盟ということにしておき、次の世界選手権の折の総会で提案しましょう」という返事がきた。FITAへの加盟権が譲渡されてからは、すべてがうまくはこんだ。1969年の1月21日付でFITAの仮加盟が認められ、国内でも2月にはJOC加盟承認、体協仮加盟承認となった。そして、この年の8月に行われた第25回世界選手権(バレー・フォージアメリカ)の総会で、万場一致をもって正式加盟が認められたのである。さらに、1970年には体協にも正式加盟が認められ、ここに至って日本のアーチエリーは内外から正式に認知されたのであった。
1969年は、国内的には関東フィールドアーチェリークラブと日本フィルドアーチェリーアソシエイションのNFAAをめぐる確執などもあった。1968年の学園紛争でアーチェリーの紛失が多数起こり、社会問題にもなった。アーチェリーを警察と戦う武器にしたかったのである。しかし実際に弓を引いた事の有る人ならわかると思うが、弓は素人がすんなり引けるような物ではないのである。東京大学でも武器として弓を用意したらしいが、弦の張り方が解らなかったらしい。
1971年には第26回世界選手権、1972年のミュンヘンオリンピック、それに続く第27回、28回世界選手権大会参加。そして、初めてあがった日の丸。日本のアーチエリーは飛躍的に成長したのである。そしてその影には多くの人々、またヤマハを初めとするすぐれた弓具メーカーの貢献があったことも忘れてはならない。
参考文献 アーチェリー臨時増刊号 1975年11月号